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コラム


 
S君
先日、教え子S君の結婚式に招かれて乾杯の音頭を取った。
私がS君に初めて会ったのは、彼が小学3年生の時で、特別に個人指導する形をとって教えてみた。
お母さんが心配するごとく、勉強の方はまだこれからという感じの子だったが、独特の心からの明るさがあった。

その後、私は中学受験を専門とする友人の塾を紹介し、そこに通ったもののどうも合わなかったようで、 別のいろいろな塾を経験した後、再び6年生の夏から私が勉強を見ることになった。
私が紹介したところをやめてしまったということで、連絡することも遠慮なさっていたようだが、 その時のS君のお母さんを私は鮮明に覚えている。 「どうしても」という決意がにじみ出ていたのだ。

中学受験を経て、中学、高校と指導し、彼が大学生になってからも、相談相手として、また時には指導めいたことをしたこともあった。 S君はお母さん子であった。しばしば周りからは手間をかけ過ぎているという目で、彼のお母さんが見られていることを私は知っていた。 しかし、そのお母さんから私は頼りにされていた。

塾人は人に頼りにされるとそれに応えようとする。
月謝がこうだからその分こうしようなどとは思わないものだ。
そんなS君のお母さんが、3年前に闘病の末にお亡くなりになった。 芦屋のご両親より先に逝ってしまったのだ。S君がまだ社会人として駆け出しの頃だった。

結婚式当日、私は友人達のスピーチでS君の親離れの一面も知り、優美な新婦にもお会いした。
それでもともかく、私は、彼女が看護系の方であることを知って妙に安心したのである。

2014.1月23日 記
 
東京オリンピックでのオ・モ・テ・ナ・シ

 

オリンピックのために英語を、と言われているが、逆に日本語の自在性を世界に知ってもらい、世界語に名乗りを上げる機会にしたらどうだろうか。

ここではオ・モ・テ・ナ・シをオ・バ・カ・サ・ンと読み替えて世界語としての日本語を提案したい。
オバカかもしれないが、私の考えを記してみたい。

ここで言う日本語の自在性とは助詞がなくてもたいていのことは意味が通じ、語順を変えても意味が通じるということだ。昔からの、中国人の日本語をやゆするアノ形である。英語などは、動詞だけ発すれば命令になってしまうという怖ろしい面を持っている。

仏語は人称によってそれぞれ動詞の形が異なるから、辞書に載っている形を口にすればほぼ日本語と同じ働きをするだけで命令にはならない。 だいたい外国人向けの日本語講座で敬語を主体にやっていたりするのを目にし、耳にすると「いいかげんにしろ。」と言いたくなる。

「あなたは何を召し上がりますか。」というようなコトバは外国人の人達に教える日本語ではない。
もっとも日本語を勉強したい学究の徒となると話は別だが・・・。
例えば、助詞ということでは「ゾウはハナが長い。」や「私は彼女が好き」の「は」と「が」が外国人には主語が2つあるように思えてよく問題になるが、取ってしまえば「ゾウハナ長い。」 「私彼女好き。」といったようにスッキリする。よって外国人に教える世界語としての日本語は「あなたは何を食べますか。」でもなく「(あなた)何食べる?」だ。これを「何(あなた)食べる?」にされても意味は通じるし、「何食べる(あなた)?」でも「(あなた)食べる何?」でもちょいと苦しいが通じるはずだ。

「あなたに何が食べる?」となったりするよりは意味の点ではずっとましだ。
「私、ラーメン」、「私、トンカツ」という発言を聞いても「私は医者だ。」式にだれもその人がラーメンだったり
トンカツだったりとは考える人はいない。実に便利な言語だ。
英語なら”For me,~”仏語なら<Pour moi,~>と言うだろう。 さらに言うなら、日本語の現在形は未来のことも表せる。

ということは簡便な言語という面から見れば、利点でもある。
すなわち「明日どこ行く?」「エビス」でOKだ。日本語」では助動詞「will」は登場しない。
仏語でも面倒な動詞の未来形であったり、aller(の活用)+動詞になる。

では、過去形はどうするのか。いわゆる終止形に「シタ」をつければよい。
「昨日カレー食べるシタ。」「泳ぐシタ。」という形はどうだろう。動詞の活用形は終止形だけにして、五段活用などの形も排する。日本語を大切に、とされる方にはしかられそうだが、あくまでも「世界語としての日本語」という面からの発想だ。 「行かない」ではなく「行くナイ」、「食べない」ではなく「食べるナイ」だ。

しかし、まだまだたくさんの面でこのようにうまく行きそう、とは言えないこともあろう。
例えばモノを数えるときはやっかいだ。「イヌ」ならイッピキ、二ヒキ、サンビキ、ヨンヒキ、ゴヒキ、ロッピキ・・・となることを外国人に覚えさせるのは愚というものだ。日本語が嫌いになるだけだ。
ましてや「ヒト」の場合は、「イチニン」ではなく「ヒトリ」、「二二ン」ではなく「フタリ」となったり、「えんぴつ」も「イチホン」ではなく、イッポン、ニホン、サンボン、ヨンホン、ゴホン、ロッポン・・・となってしまうので世界語としては、この点は変更点だ。世界語としては、「数+名詞」が良さそうだが、日本語としての特質から「名詞+数」が良さそうだ。すなわち「3ビキのイヌ」は 「イヌ3」、「フタリ」は「ヒト2」、「5ホンのえんぴつ」は「えんぴつ5」というようにした方がしっくり来る気がする。

そもそもオ・モ・テ・ナ・シではすでに日本は世界一と言ってもいいくらいだろう。
私が言っているのは「ナンパ」が世界語になりそうだ、という意味で言っているのではない。
接客面でのサービスとかデパート、レストラン、公共施設のトイレとかそういった面でのことだ。
海外に行ったことのある人なら説明は不要だろう。本題からはずれそうなので、今回はこれくらいにしておきます。

最後に、塾らしいことを世界語ふうに言ってみる。 T.Mさん、センター日本史満点、オメデトウ。

2014,1月22日 記

 

 


 
  先生、降りてきた! O君とK君
早慶の文系学部を狙う人へ
          ―――そして早稲田
積分のために 英単語の手がかりについて
千葉大(医)に合格したO君と私 モル(最近の質問に関連して) センター試験あれこれ
ディベートにローカルルールを! 物理のわかりにくさ 英単語の習得法について
センター試験について メンタルトレーニング 円周率は、3.14か3か?
感想か評論か 入試とオリンピック 数学ギライの高校生が多いのはどうしてでしょう
夏休み中の一学習方法 夏休みの前に  
「その日」と学習計画 自己暗示について  
子どもの数 外国人教師のつかいどころ  
愛知万博に行ってきました! 「内定」と「合格」  
今回に入試っで思ったこと 1粒で3つの味が楽しめる?  
入試開始!! S君の報告  
新しい年に&センター試験 古文と「古文」について  


 

 

 

 

 

 

 

 

 

   
 
 
先生、降りてきた!
この4月から上智大学の国際関係法に進学することになった生徒が受験後に私に告げたコトバだ。
彼は文系ながら数学をやりこんでいて、歴史ではなく数学で受験していた。前日にやったチェバの定理とメネラウスの定理を用いて解く問題がちょうど出たというのだ。さらに「周りの人達はベクトルを用いて解こうとして苦労していたようだ。」と付け加えた。
確かに上智大学の国際関係法は、英、国以外に世界史か日本史か数学を選択することになっている。しかし、数学の中身をよく見てみよう。大学側が要求しているのは数TAと数Uだ。ところがベクトルの分野は数Bに属する。ちなみにチェバ、メネラウスは数Aに含まれている。社会系科目の代わりに数学を選択してよいとする大学の主立ったところは数TA、UBを選択させる例が多い。(経済系の方が法学系よりさらに顕著ではあるが)だから、この場合本番では数B不要ということを受験生が忘れてしまっていても不思議はない。特にいくつかのうちのひとつという感覚で受験する場合はなおさらだ。彼は英語の長文もいつにもまして見事な出来で、そのことも合わせて思わず口から出たコトバだったのだ。
私自身は、彼の数学の能力を高く買っていて、どこの大学を受けても恥ずかしくない得点力を備えていると思っていたが、同時に努力しても、なかなか模試では各科目の足並みがそろわないという彼の悩みも知っていた。
それが、本番で英、数2教科で例年の英数国3教科分の合格ラインの得点に達しそうな勢いなので、国語が普通にできていれば上位で合格できるという計算が立った。
ともかくここまで書いてきて私が言いたいことは、幸運が彼にやって来たのではなく、彼が幸運を呼んだのだということだ。頭の中で君を上智大学というキャンパスに置いたとき、だれよりも似合っているなと私は思う。
20010年1月
O君とK君
東京理科大に合格し、国立大学の前期試験の結果を待っているところだが、すでに第一志望に合格している生徒(H君)
もいるので、そうした生徒について書いてみたい。 まず高卒生のO君だ。
彼は当初心理学を大学で学びたい意向を持っていた。
英語、国語、日本史を毎日当ゼミでやっていたのだが、急にご両親の仕事、すなわち歯科医を目指すことになった。
夏頃のことだ。 (私には急に思えたのだが、本人の心の中では徐々にその気持ちが大きくなっていったようだ)
科目数が少なめの大学を選ぶことにしても歯科系は理系である。 日本史を生物に代えての出直し。
正直言って私にも間に合うのかなという念がちらついた。
生物はテキストを決めて間に合うようにページを振り分けて毎回の確認テストだ。
よくついてきてくれたものだと思う。 家でも相当がんばったはずだ。 彼は、サッカーが好きで私もいろいろ
サッカー情報を彼から得たものだ。 重要なサッカーの試合中継を見るのを禁じるようなことは私はしない。
好きなことに時間を使ったのだから、その分勉強に弾みがつくというものだ。

余談はさておき、日大松戸歯学部に彼は合格した。 そして、彼は医者になる資質を備えていると私は思う。
私達には今はその2つのことで充分だ。

もう1人は現役生のK君だ。 彼は実は公募推薦試験では、今回合格した第一志望の大学から不合格を通知されている。
とてもまじめな生徒で、成績面での条件も満たしていたので推薦で行けるかなと期待していた。
だが、残念な結果を突きつけられたのだ。落胆は大きかった。
一般入試となるとさらに学力面での備えが必要になってくる。 でも、一般入試で東京農大に合格した。
彼は動物に興味があり、自分が大学で学びたいことを持っていた。
だから、気持ちを切り替えてやれたのだと思う。 彼には大学で学ぶ意志があり、それを遂行していくだけの資質が
あると私は思う。 一生懸命学んでいってほしい、と心から願っている。

国立大の発表前のひととき、いい生徒に恵まれているなという自分への再認識の時でもあるようだ。
 
20010年1月
早慶の文系学部を狙う人へ
          ―――そして早稲田

これから書くことは一般入試で合格するためにはどうしたらよいのかということで、模範的な高校生には、指定校推薦がお勧めかつ手堅いことはいうまでもない。
早慶ともに科目数が少なくて済む(英・国・社、英・社、英・小論)ので、しぼりこんで学習するのは当然のことだ。社会は「日本史」がおススメだ。「世界史」はタテ(通史)とヨコ(その時代の地域)がからむので、よほど好きである場合を除いては避けるのが無難だ。例えば、19世紀のイギリス、フランス、中国、インド、ロシア、アメリカ…では?となるので、ヨコの広がりが大変だ。その点、日本史はタテ一本でO.K.だ。もちろん細かい。「そんなことまで問わなくても」という出題も多い。しかし、ともかく多少頭が固くても詰め込んで何とかできる。ただ、後でも述べるが、誤解しないでほしいのは、合格するためには「日本史」選択者でも、ある程度の世界史に対する知識、認識は必要だということだ。最低限常識レベルはクリアしていなければならない。
「日本史」、「世界史」以外では、「政治経済」で、受験できるのが早稲田だ。政経、法、商、教育、社学の各学部で「政経」を選択できる。文、文化構想では、「世界史」「日本史」だけが認められている。政経学部で、「政経」選択が認められていないのは、やはり変だからであろう。それに対して慶應は社会については、「世界史」「日本史」での受験しか認められていない。(商学部だけは、「地理」を選択できる。)このように「政経」を選択して受験することができないので注意が必要だ。慶應の経済学部の「世界史」、「日本史」が経済系の出題が多いのはせめてもの罪滅ぼし?であろうか。
国語については、慶應は国語の代わりに論文(資料の読み取りを含む)だ。早稲田の現代文をしっかり読んで自分の考えを言える(書ける)ようにしておけば一石二鳥だ。特に法学部では理解力、構成力、発想力、表現力が問われるようだが、他学部もそうだ。いずれにしてもきちんと日本語が読めて、漢字を正しく用いてきちんと表現できるようにするのが最低限だ。
英語についてももちろん日本語での文章理解力がベースにはなる。ともかくここでいきなり結論めいたことを言えば、「常識力のない者は受からない。」ということだ。このことは早慶ともにあてはまる。
英文は会話と異なり動きが止まっているので、複雑な文は特にまな板の上に載せて、構文を把握し読み取り、何を言っているのかを知る。英文を読みとるための文法ができているかどうかだ。文法力と単語力、熟語力は結構連動している。単語力だけで何とかなるモノではないのは当然だが、ある意味単語力が人並み以上であっても文法力がさほどでもない場合があるかもしれない。しかし、文法力が人並み以上あれば、だいたい単語、熟語力もまず備わっているものだ。
慶應は総じて他科目に比べて英語の配点が高い。ともかく英語だ。英語をしっかりと読めるようにする。少し難しめの英文を時間をかけないで内容把握できるようにするべきだ。早稲田も慶應ほど顕著ではないが、英語の配点は高めか同じだ。慶應よりは、国、社が配点上侮りがたい。教育学部では、英、国、社、が均等配点となっているほどだ。日本史を切り札にまで高めたいところだ。
このように指定校推薦を狙うならともかく、受験科目以外は何とか単位がとれる程度でも合格できるようには見える。そうなのだ、確かに受験科目以外の成績は良くなくてもかまわない。ところが、ここで先に書いた「常識力」の出番だ。早慶に合格するには物理、
化学、生物、地学でも世界史、日本史、地理、政経、倫理、現社でも常識レベル(の知識)は必要だ。科目以外での社会への関心、精神面、情緒面でもそれは問われるところだ。結果が例外を生み出すが、ここではそれには触れない。あくまでも、大本線について述べてみた。以上。


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さて、ここからは、そして早稲田」だ。早稲田に関心のない人は読む必要がない。まず近年の早稲田の地方での付属校戦略、これは「違う」と思う。「なぜか?」その方針は「ぼっちゃん路線」だからだ。早稲田のキャンパスを「ぼっちゃん」ばかりにしてどうするのだろう。入ってくるぼっちゃんはしょうがない。しかし自らぼっちゃんを早稲田に入れようとする姿勢は、早稲田の何たるかをわかってはいない。「ぼっちゃん」は慶應が老舗だ。ぼっちゃん路線では慶應の後塵を拝するのみだ。地方の田舎モンの人材を集めるのが早稲田だ。東京、関東出身の学生が以前より比率上多くなってきていることを批判するつもりはない。ただ早稲田には「ありとあらゆる人間がいる大学」であってほしいし、中退者が一番すぐれていると言われる大学であってほしいと思うだけだ。
大学の経営のことを無視してのノスタルジックな感傷と思われるかもしれない。それでもほんの80年ほど先を考えると、今の路線がいかに早稲田から魅力を減じ、時に得体のしれないエネルギーを発する力を弱めていくかが見えてくるように思うのだ。それだけ。

 
 
2009年3月
 千葉大(医)に合格したO君と私

思い起こせば、昨年の君のセンター試験失敗から私と君との二人三脚が始まったような気がする。センター試験の結果が悪くても足切りもなく、他大と比べて二次試験の比率が高い岐阜大(医)を選択した。そして前期・後期ともに痛い目を見た。センター試験で望むような点が得られなかった受験生が集まる大学ではあった(後期48倍)が、私にはそれなりの成算はあったのだ。

 不合格という事実をしっかり受け止めての再出発。まずは英語で常に高得点が取れるようになった。単語、熟語集をサブにして、長文問題演習中心の学習だ。単語は「新ジーニアス単語2200」を中心にして、4冊ほど範囲を決めての毎回テスト。文法面は読むための文法はもうほぼ身に着いていたので、センターをある程度意識しつつ整序作文や穴埋め問題を適宜やった。
数学については、我々ほどまずまずのレベルの問題を数多く経験した者はいないかもしれない。数学の問題を解く時にはまず自分でしっかり考える。これなしにはどんな大先生の名講義を聴いてもあまり実力は身に着かない。もちろん、そうした場合でも後でしっかり復習すれば、同パターンの問題は解けるようにはなる。結果的には両者はあまり変わらないように見える。しかし、入試のことを考えると受験生はまず自分で問題を読み、考えて解くわけだから、その方向性を重視したい。教える側のあえて教えない努力も要るのだ。
私のところは個別なので、数学などは当人が考えぬく前につい口をはさみがちになる。間合いが難しいのだ。ということでO君については、入試感覚での数学を毎回経験してもらった。
国語については、センター試験だけで必要な科目だったので、比較的やりやすかったように思う。ただ模試では、なかなか安定しづらい科目だったので、本番のセンター試験でも最も心配していた。ところが、うまく9割を獲得できたので、これが合格への大きな足がかりとなったのは確かだ。

 悲愴感のない我々だったが、それなりにいいコンビだった気がする。喜んでコンビを解消しよう。これからが、君の本当の勉強の始まりだ。手先も器用な君だから、未来のゴッドハンドたれ。



   
 
2007年6月編
ディベートにローカルルールを!
このところ特に「現代社会」という科目の中でディベートの時間がある。ディベートのルールは以下のような形である。

@チームを作る。
Aテーマを決める。→資料の準備
B先攻(肯定側)と後攻(否定側)を決定する。
C(ア)肯定側と否定側の立論。
  (イ)双方からの反対尋問
  (ウ)双方の最終弁論
D判定
※判定はディベートに加わっていない立場の生徒によって行われる。その際には、 説得力や資料の豊富さなどを点数化した形で優劣が決定される。

  私が日本でのローカルルールを提案したいのは上記のBの部分である。現行のルールでは肯定、否定の決定は、本人の意思とは関係なく機械的に決められてしまう。例えば、テーマが 「年金制度は必要である。」というような場合、自分なりには必要だと思っていても、不必要だというチームに属することになったらその立場から発言もしなくてはならない。なぜそのようになっているかというと、ディベートは「ゲーム」だから、というのが大方の意見である。
私はこれは自分の意思を反映したチームに生徒が属すことができるように変えた方がよい、と思っている。
まず (日本の)高校生は、自分の考えを人にいかに伝えるかということを第一にやるべき
であって、ゲーム的なものは、そのあとでもいいように思うのだ。もちろん将来弁護士にでもなったら有罪 としての刑を少しでも軽くするのに役立つような弁論が必要だろうが大部分の生徒に必要なの はよく考えて自分の立場を決定することであろう。その際に考える判断材料として資 料が重要になってくる。面倒だが、調べたいことがある時にどうするのあkということも経験できる。この点はディベート導入のプラス面である。
「ローカルルールを適用したことでそれはディスカッションと違いがなくなってしまうではないか!」
と反論されるかもしれないが、ディスカッションはある問題について意見を出し合うという友好なムードが勝っている「話し合い」であるから明らかに異なる。自戒をこめてまとまて言えば、設定されたことがらに対して適切な資料に基づいて自分でよく考えて意見を述べられるようにすることが先決だということ、ゲームはそのあとでよい。

 
2005年9月編
 センター試験について
この時期には毎年センター試験について書くことになる。平成18年度センター試験での目玉は何と言ってもリスニングテストの実施だ。英語の受験者は、必ずリスニングテストを受験することになっている。18年の1月21日(土)と22日(日)に行われるセンター試験において、英語は筆記試験が21日の15:35〜16:55でその後の17:40〜18:40がリスニングの時間となる。ただし、解答時間は30分だ。ではなぜ試験時間が60分かと言うと、ICプレーヤー、イヤホン、音声メモリー(問題)が、問題用紙と解答用紙のほかに配られ、音声確認も行われるからだ。ICプレーヤーには3つにボタンがあり、それぞれ「1電源」ボタン「2確認」ボタン「3再生」ボタンとなっている。1,2を押すことで音量調節用音声が約1分流れその音声でICプレーヤーの音量調節を行い、3を押すことで音声問題が流れることになる。各設問の音声は2回流れ質問文も、すべて問題冊子に書いてあり、設問ごとに解答用紙にマークして進める形となる。他の科目では、解答を問題用紙に記入しておいて、後でまとめて解答用紙にマークしていく方法も採れるが、リスニングテストは、その都度のマークが求められている。また、当然「巻き戻し」や「一時停止」の機能はついていないし、他科目は20分以内の遅刻については受験が許されても、リスニングテストは試験の性質上遅刻したら受験することができない。こうした一連のリスニングテストは、監督者の指示に従って進行していくことではあるが、混乱する事態が予想されなくもない。ともかく、受験者が実力が十分に発揮できますように。
※数学の受験者は、時には鉛筆を使って問題を解いてみよう。(シャープペンは全科目本番では使えない。)
 
 
2005年8月編
 感想か評論か

今頃は感想文にとりかかっている生徒が多いようだ。学校によっては、ある作品についての評論を求めるところもある。Yさんの学校がそうで、夏目漱石の「こころ」が課題の小説である。Yさんから、昨年度の優秀評論集を見せてもらった。Yさんは現在高2なので、今は高3になっている生徒の作品である。それぞれ立派なものである。
改めて自分の高校時代を振り返ってみると感想文には、あまりいい思い出はない。できれば避けたいという気持ちでいたのでどんどん後回しにしたように思う。「感想」と言えば、「おもしろかった。」か「おもしろくなかった。」かのどちらかで、ひとことで終わってしまうものだったのだ。「おもしろかった。」をほじくり返すとつまらなくなってしまうし、ましてや「おもしろくなかった。」作品の感想文などまっぴらだ。ただ、心から感動した作品については、何かを書き留めておきたいという気持ちと実践が自発的に伴うことがあるのも事実だ。それは、まさに自分がその時期にその作品に出会った証でもある。
さて、感想か評論かということだが、私は評論だったら感想文ほど重い気持ちにならなかったと思う。「感想」と「評論」の線引きは結構あいまいなものなのだろう。しかし、「評論でもいい。」と言われれば課題図書が、自分にとってつまらないものでも、つまらなく思う理由を文章化すればいいのだから少しは気が楽だ。Yさんは、国語の先生から「感想文じゃダメよ。」と言われたそうだが、感想文を根底に据えて、論じていけばよいと思う。「こころ」の先生のウソは、最近話題になっているアスベストのごとくに先生のこころを徐々に蝕んでいったのだと思う。世の中にはさまざまなウソがある。私は、いつのまにかYさんとウソに
ついて語り合っていた。

 
 
2005年7月編
 夏休み中の一学習方法
ともかく夏休みなので普段とは違ったことをやってみたい。まず、英語についてなのだが、お気に入りの映画を見る。何回も見る。『こういう場面ではこういうことを言うのか。』 『この表現いただき。』という感じで、その男優か女優のセリフを覚えてしまう。受験に出る出ないでなく、あんな場面では、あのように言いたい、という気持ちのままに覚える。そしてそれが自分の言葉として発せられた時、君はヒーロー&ヒロインになる。
次に、古典については、助動詞等の文法事項で痛めつけられているのでそれを癒してみたい。まず、自分の気になっている作品、たとえば「枕草子」でも「徒然草」でも「源氏物語」でも「更級日記」でもなんでもよい。ただ選ぶ本は、2段組で上が訳(現代文)になっている対訳本の体裁のものがよい。そしてまず上の古文を読む。それから下の現代語訳を読む。もっと、いやしが必要な場合には、まず下の現代語訳を読んでから上の古文を読んでもよい。
そうして何ページか読み進んでいくと必ず気になる表現が出てくる。たとえば「さうざうしう」→もの足りずさびしく、とか 「あさましう」→驚いたことに、などだ。そして読み物として読んでいる限りは「註」としての「語釈と文法」も読むことになる。強く意識する事もなく、「に」は断定の助動詞「なり」の連用形、とか「や」は疑問の係助詞、などの記述も読み進めていく。気になれば、本文(原文)にもどって確かめればよい。そして、いつのまにか1冊読み終えている。古典も昔は現代文学だったのだからこのような読書も許されてよい。
※文化庁が7月12日に発表した「国語に関する世論調査」で、本来の言い方である「汚名返上」より「汚名挽回」の方がよく使われるようになったと報告している。「目線」だって昔は「視線」の誤りとされていたこともあるが立派に市民権を得ている。ことばは多数決の面を持つことを改めて知らされる。最近の会話については、「やばい」を「とてもすばらしい」という意味で使う人が18.2%となっている。私は「やばい」をこの意味で使ったことがない。ただ「微妙」をいいか悪いかの判断がつかないときに使うことはある。自分の立場を鮮明にしなくてすむ便利な語でもある。日本人好みの語と言えよう。
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ともかく、あれもこれもやらされることはあっても、自らあれもこれもできないのが夏休みだ。
「あれかこれか」の夏休みの始まりだ。テーマを持って臨もう。
 
 
2005年6月編
 「その日」と学習計画
「その日」は必ずやって来る。死を迎える日のことではない。入試に臨む日のことだ。受験生は、今日がその日であってよいかどうか 自問する朝があるはずだ。答えはまず決まっている。「まだダメだ。今日 がその日でなくてよかった。」というものだ。これが延々と続くかもしれない。入試の当日は「その日」なので問いは無意味だ。しかし、その問いは ミクロな視点に立つ時、一日の学習内容をきめるのに大いに役立つ。入試日前後に焦点を合わせてミクロな視点で学習計画を作成した場合には、特にそう言える。「その日」を意識することで、自分に足りないところが鮮明になってくると思うのだ。まず、各科目ごとに書き出してみよう。次から次へと出てくるはずだ。私の塾の浪人生にも足りないところを書き出してもらった。やはり、各科目で苦手な領域が浮かび上がってくる。その書き出されたものをもとにして1週間後に入試があると仮定してやってみてはどうだろう。明日が入試日と仮定すると何から手をつけてよいかわからないというより
1, 公式系の見直し(物理、あるいは数III)
1, 有機(化学)
1, イスラム関連のまとめ(世界史)
1, まちがえやすい文化史(日本史)
1, 構文系(英語)
というように結局は記憶に訴えかけることが主体となってしまう。だから、1週間後くらいを目安にするとちょうどよいと私は思う。焦らせる気持ちはないが、センター試験まで30週を切ることになる日が目前に迫っている。ゆっくりした心を持ちながら、急ごう、「その日」まで。
 
 
2005年5月編
 子どもの数
総務省が「子どもの日」にちなんでまとめた人口推計によると、4月1日現在の155歳未満の子どもの数は1765万人で、前年より15万人減っているということである。24年連続の減少で、総人口の13.8%となり、1975年以降低下が続いてい る。このように 子どもの数がへり続けていることに危惧を抱いている人は多いというのも客観的事実である。しかし、私はより幅広く年月のスパンをとってみれば、必ず増加に転じていくだろう という楽観論者なのである。その根拠は、というと子どもが1人という家庭でも本当は子どもを2人(もしくはそれ以上)ほしいと思う家庭が実は多いということなのだ。すなわち、子ども2人を余裕を持って育てられる環境が整えば平均して一家庭に2人以上の子どもがいるようになる。
では、まずなぜ子どもの数の減少傾向に歯止めがかからないのか!もちろん個々にはさまざまなケースがあるだろうが、最大公約数的なものは、2人では経済的に大変ということだ。学校は、私立に行かせて人並み(以上)に教育もし、おけいこごともさせてとなると、1人でも結構大変であるし、さらに家庭の生活レベルもそれなりを望むとなると落ち着く所は、少子ということになる。このように考えれば余裕重視型社会とも連動している。 結論を急ぐようだが、お前の楽観論の根拠は?と問われれば、日本全体については見通しが立たないまでも、ある程度の不動産つきの1人っ子どうしが結婚すれば、そこに生活面の余裕が生まれ、ひいては、子どもを2人持つような方向性が見えてくると思うのだ。もっともそれには、本来子どもは兄弟ゲンカをしながら育つものだという社会通念が大きくは揺るがないということが前提だろう。
 
 
2005年4月編
 愛知万博に行ってきました!
実は私は大阪万博にも行っている。東京オリンピックを知っているかどうかで、だいたいの年齢がわかるとされてきたが、今回の万博で、大阪万博を知っているかどうかも目安のひとつとしてさらにクローズアップされそうである。今回の万博については、自然保護(野鳥も含めて)の観点から、当初の計画とは異なる地がメイン会場となっていて、地元の人達の中には、会場候補地の山林の中に自分の木を持つことで、自然環境の破壊を防ごうとした方達もいるということである。それはともかく、どういうわけか万博のメインは、冷凍マンモスになっていて、これを見ないと万博に行ったと言えないような雰囲気なのである。一人で行ったのならまずパスするところでも、子連れだったので、整理券を取るために並んだ。ディズニーランドの人気アトラクションよりもすごい人気である。あとは気楽に、トヨタ,日立等人気企業のパビリオンはパスして、あまり人のいない各国のパビリオンを中心に見て回った。ブルガリア館で彩色の気に入った器を買い、インド館で細工物を買った。お店の人達が必ずしも英語が流ちょうでないのが、なぜだか楽しい。 実は名古屋駅から会場に向かう電車の中で生徒のご家族に遭遇するという出来事があった。個人塾だけに根拠地の恵比寿を離れた場で出会うと懐かしさが募る。それにしても名古屋は地下街が明るい都市である。地上に出ると、繁華街の妙なところに観覧車があったりする(最近出現したということである)。また、食の面でも面白い取り合わせの発明品があったりして、何だか日本の上海のようになっていくのでは、と期待させる何かがそこにはあった。
 
 
2005年3月編
 今回の入試で思ったこと
特に英語について改めて強く感じたことは、コトバには段階があるということだ。以前からの持論になるが、言語を習得する時の形として富士山型を意識すべきだ。裾野が広い方が望ましいのは、もちろんのこととして、段階的になっていることが、とても大切なことだ。色にたとえれば、ある単語が超キソ色なら、別の単語は、入試キソ色というようにだ。それは熟語においても言えることである。そのようになっていれば、適語補充問題で、どれが絶対にできなくてはいけない問題で、どれができなくても許される問題なのかが当人にわかってくる。問題の値踏みができるということは、実力がついてきた、ということだ。英語を怠けていて即製で、長方形型になっていることを意識している君は、ぜひ富士山型に再構築すべきだ。そうする際には、正答率65%くらいの短文問題を数多くこなすとよい。難問を解くだけが合格に至る道ではない。
また、小論文は日本語の文章の読解力と文章の作成能力を見る二本立ての傾向を一層強めている。だから日本語をきちんと読みこなせない受験生は相当に厳しい。志望学部に関連した文章が多いとはいえ、一般常識レベルの教養(人名など)がないのも致命的となる。小論文入試が、客観的に採点できる面を肥大させつつあることは、認めねばなるまい。そうなるとますます国語に接近することになり、改めて小論文入試に対する見直し(廃止を含めて)が各大学で始められることとなろう。
 
 
2005年2月編
 入試開始
2月2日Aさんの立命館大入試の応援に池袋駅まで出かけた。興奮した様子もなく、普段通りの感じである。いくぶん安心した。それにしても立命館大、同志社大の東京会場入試は、すっかり定着した模様だ。 自分の入試も振り返ると京都まで同志社大を受験しに行ったことは覚えているが、宿の様子などは、あまり記憶がない。宿の様子で、よく覚えているのは、早稲田大であって、まるで、臨海学校の宿のような、下落合の和風旅館であった。個室などとは、とんでもない、数百人の雑魚寝である。いびきあり、歯ぎしりありで、よく受かったものだと思う。学生生活課というところの紹介の旅館だったのだが、そこには在学中もアルバイトの紹介等でお世話になった。ついつい懐古調になってしまった。
ともかく、大学というところは妙な魅力を持ったところであったし、そうあってほしいと思う。大学以外のところで資格を取るために窮屈な学生生活を送らねばならないとしたら、不幸なことだ。資格というと専門学校の領分のようになってしまうのが、現在の大学のジレンマなのだろう。ただこれだけははっきりさせておくべきだと思う。勉強したい学生にとことん場を提供するのが大学の役目であって、逆に勉強しない学生はほっといてよいのが、大学なのだ。一部の大学で、親に子の成績表を送るシステムなどは、いつまでお子ちゃま扱いしているのかと思ってしまう。学生よ、怒れ。そうは言っても、大学生の4年間(以上)は、親からの時間の贈り物であることは確かで、このことは、大学生は心に留めておいてほしい。こんなことを書いているうちに、T君からの玉川大合格の知らせと、O君からの桐朋高校合格の報が飛び込んできた。だれもの努力が報われますように。
 
 
2005年1月編
 新しい年に&センター試験
我々の仕事を考えると、12月から1月への移行は全く節目とはならないが、やはりそれなりの感慨はある。年の初めに“忙中閑あり”を自然体で実現できれば、と望む。このことには、わけがある。昨年の11月頃、ミレーの「落ち穂拾い」という絵を見ていたときに、3人の人物しか描かれていないはずの絵の遠景に10人を超える人達が描きこまれているのを発見したのである。まず「よく見る」「よく観察する」ということだと改めて思った。振り返ってみると昨年は、美術館に行く回数も例年よりは少なかった。すぐに思い出せるのは、アンリ・マチス展くらいのものだ。大胆な色使いはもちろん彼の曲線の持つ表現の豊かさが印象に残っている。ただ、1月・2月は“忙中忙にあり”を覚悟だ。私の仕事の総決算が試される時。山あり谷ありの過程を経ての結果が待ち受ける。他人の結果によって自分の仕事の成果が測られる。というのが“我々の宿命だ。”ともかく好結果を得たいものだ。
追記 「絵をよく見る」ということで昨年のある日改めて「モナリザ」を見てみた。果たしてモナリザは微笑んでいるのかどうか。私の結論は「微笑んでいる」と思って見ると「微笑んでいる。」というものだ。さすが、万能の天才レオナルド!すごい!! センター試験

1月15日、16日にセンター試験がおこなわれた。15日は例年通りひどい天気になった。もう恒例である。15日の実施教科は、1時間目が英語、2時間目が地理・世界史・日本史から1科目3時間目が物理、4時間目が化学・地学から1科目、5時間目が生物というラインナップである。私大文系でセンター試験合格を目指す受験生は、2時間目までで終了したり、英語だけを受ける受験生もいたりさまざまである。
私は、14日に英語のアクセントに不安があると訴えた塾生に、名詞と動詞でアクセントの位置が変わる単語を与えた。その中に試験問題の“insult”という語があったので、ヨシ!という気持ちになったと同時に はずすなよ!という祈りにもにた気持ちになった。
16日の実施教科は、1時間目が国語、2時間目が数学I・A、3時間目が数学IIで4時間目が現代社会・倫理・政治経済から1科目という形だ。数学は例年通りの出題法だが、アセッてしまうと数II・Bは、からまわりしそうな問題である。また、中には1時間目と4時間目が自分にとって必要な科目である受験生もいる。その場合には、4時間以上のあきができてしまう。一度家に帰る受験生もいるようだが、私は反対だ。それは気持ちがくずれるからだ。試験会場は戦場でもあるのだ。それなのに、今年も「またか」という気持ちになったのは、試験時間を短くしてしまた試験会場があったことだ。人によりけりではあるが、特に 数学・英語のラスト2分は大きいと思う。試験監督にも、受験生なみの真剣さを求めたい。
“うまくいった”受験生は波に乗って進めばいいし、“うまくいかなかった”受験生はここから建て直していけばよい。まだ、時間はある。健闘を!
 
 
2004年12月編
 積分のために
どの教科書でも微分の次に積分の章がある。そして、微分の逆演算としての扱いが最初に紹介される。物理とも関係するが、t秒間の落下距離Xm(4.9t2乗)のtについての微分→時刻tにおける速度→時刻tにおける速度の微分→加速度、といった矢印を逆にたどるための演算として紹介されるのが一般的である。次に応用として、曲線y=f(x)とX軸及び2直線X=a、X=b、(a<b)とで囲まれた部分の面積を求める方法が示される。よって初めに微分あり、という前提のもとでの積分の登場ということになる。確かに微分と積分は相互に補完しあう。しかし、正確には面積を出せそうにもない形の面積を出せそうもない形の面積を求めるためにいかに工夫したかということから積分へと至る道すじがあってもいいように思える。
たとえば、ガリレオに学んだガバリエリは、たくさんの糸をならべてその形を満たすような考え方(糸は長方形と考える)で面積を求めようとした。すなわち「面は無数の直線から成る。」というわけである。よりおおざっぱに言えば、細いテープの幅×高さ(横×たて)の幅を細かくしていって数を多くし、一挙に面積へと持ち込む手法である。この手法は体積に用いることもできる。すなわちサツマイモのような形のものでも、切り口の円をテープの高さとして表し、テープの幅を細くしていけば、一挙に体積へと持ちこめる。このようにして、体積が面積の積分として理解されるようになる。積分は決して微分の影ではない。
 
 
2004年11月編
 モル(最近の質問に関連して)
化学のモル(mol)の語源は、分子のmoleculeである。だから原子についてはモルと いうことばを使わないのかと思うと、そうではない。使うのである。すなわちアボガドロ数個の原子を原子1モルとよぶのである。もちろんアボガドロ数個の分子を分子1モル、アボガドロ数個のイオンについてもイオン1モルという。塩化ナトリウムのように分子の存在しない物質についても化学式量にg(グラム)をつけた質量を1モルとよぶのである。また、溶液の濃度を表すのにもモルは用いられ、溶液1リットル中に溶けている溶質のモル数で表した濃度がモル濃度である。
例として「20%の水酸化ナトリウム溶液のモル濃度を求めなさい。ただしこの溶液の密度は1.2g/p3とする。」というような問題では、この溶液1リットルでは1200gということになるので、1200g中の20%の240gが溶質としての水酸ナトリウムの分で、水酸ナトリウム40.0gを1モルとすると6(モル/リットル)が答えとなる。
ところで、米などを売買する時には、何sというような形態で米何粒という扱いはしない。しかし、モルの場合にはいわば、粉について何個という考え方も必要とされる。モルのわかりにくさは主にここにあると私は考えている。大ざっぱに1モルを実感するには、水18ml(18g分)をすくいとればよい。すなわち、その中には水分子がアボガドロ数個含まれており、水分子1モル分というように考えるのだ。なるべく手でさわれるように、また肉眼で観察できるように教えられるように心がけたいと、いつも思っている。
(注)※水素原子1個の質量 0.000 000 000 000 000 000 000 00167g
  ※アボガドロ数 6.02×100 000 000 000 000 000 000 000
 
 
2004年10月編
 物理のわかりにくさ
物理を苦手とする生徒は多い。好きな生徒は、物理ばかりやっていたりするようなある意味では好き嫌いが最もはっきりしている科目と言ってもよいようだ。 生徒に尋ねてみると まず「質量」と「重さ」のちがい、そして「慣性」というようなコトバの意味がわかりにくいから好きになれないという意見と、見たコトをそのまま受けとるだけで、その現象の背後にある法則を考えるのはメンドウ、もしくはその法則を考えても式がなじみにくいというのが大多数であった。たしかに、観察していると動いているモノはいつかは止まるというのが我々のジョーシキである。しかし、物理のジョーシキは力がはたらかない時には、止まっているものは止まっているし、動いているモノは同じ速度で動き続けるというようにモノの特性を説明する。実は この事が「慣性」なのだが、一般に考えられる場合には、前提としての「力がはたらかないときには」が抜けた形で伝わりやすい。
我々の現実は、たとえば車が等速運動を続けるには、力を加え続けなければならないというもので、アクセルを踏み続けないと車は止まってしまうというのが、我々のジョーシキなのである。(オートマ車は別として)だから「本来動いているモノは、同じ速度で動き続ける。」と言われると『?』になってしまう。一般のジョーシキは本来「いつかは止まるもの」で、同じ速度で「動く」ではなく「動かす」だからである。しかし「本来」というコトバを「力がはたらかないときには」としてみると、動いているモノが止まってしまうのは、路面から動くのを止める力(摩擦力)をうけるからだという物理の説明が、納得しやすくなるように思われる。そうではあっても力は目に見えないから、私は苦手だという人がたしかにいる。現象をそのまま現象としてうけとめ、「なぜ?」を問うのではなく、「観賞」するタイプの人だ。「リンゴが木から落ちる」という同一現象であっても、人によって見方・感じ方は異なる。それでいいのだ。いいのだが・・・・・。
 
 
2004年9月編
 メンタルトレーニング
オリンピックという大きな舞台で普段もしくは普段以上の力を発揮するのは、とても大変なことだと思う。ほんの10秒で結果が出てしまう100mなどはスタート時のちょっとした気持ちの揺れで、それまで積み重ねてきたものが無になってしまうこともあろう。厳しいものである。
今回のオリンピックでメンタルということを最も強く意識させられたのは採点競技であった。例えば体操だ。観客の注視の中で、次から次へとワザをこなしていく。メンタル面と身体との見事な調和だ。考えすぎたら演技はとまってしまう。かといって頭の中をゼロにするわけにはいかない。緊張しすぎたら本来ダイナミックなワザが小さくなってしまう。本当に絶体絶命の状況なのだ。気持ちを逆転させるくらいでないとあのような演技はできない。 『見て、見て、オレのワザすごいだろう!』くらいの気持ち。見られてカイカンというような気持ちが必要となるように思われる。
入試の場合は答案作成中にじっと見られるということはあまりないが、十人中十人が試験監督の人にずっと隣に立たれているとイヤだと言う。私の塾生が以前センター試験を受験した際に欠席者が多くて、顔をあげるとダイレクトに教壇の監督者と目が合ってそれがとても気になった、ということも聞いた事がある。彼女に言わせれば「前に、背中があると落ち着く。」ということだった。
また、体操ネタにもどるが、ミスをした後の気持ちとその後の切りかえはテストにも共通するものがある。特にヒアリングは、考えこんでいるうちにも次から次へと進んだりするので、早めの気持ちの切り替えが、必要となる。本来できるはずのものまで正答を得られなくなったりするからだ。また、センター試験の数学等で、□に数がピッタリはまらない場合にはアセる。そんな時はまずやり直してみる。そして、やはり合わなかったら、別の問題に進んだ方がよい、と私は思う。また、見直しを容易にするためにもどの問題の解をどこの場所でやったかすぐわかるようにしておくべきだ。総じて今回」のオリンピックでは、日本の若者はなかなかやるな、と思った。その思いの分だけは、私も確実に年長者となった、と言えそうである。
 
 
2004年8月編
 入試とオリンピック
アテネオリンピックが間近に迫って来た。出場選手の中には、4年前の雪辱に燃えている者もいるはずである。その人の4年という歳月は安易に語ることが許されない重みをもっている。※入試はそれに比べると毎年あるだけに、チャンスの面だけを考えれば受験生はまだまだと言えそうである。
しかし、ダメだったときの悔しさは変わらないはずだ。特に懸命にがんばった者は、人には言えない秘めた悔しさを抱えこむ。口に出してしまうと負け惜しみかチープな言い訳になってしまうので言わないのだ。入試は一応受験料を払えば参加できる。オリンピックはまず選ばれないと参加できない。※あるいは以前モスクワオリンピックに日本が不参加だったために選手としてピークの時期にオリンピックに出られず4年後のオリンピックに出たものの思うような成績があげられなかった不運な選手もいた。
入試で言えば足切りのある大学のようなものだろうか!選ばれなかった悔しさと言えば高橋尚子選手が思い浮かぶ。実は、私は高橋選手が東京国際マラソンで走った日に往路で元気に走っている姿を見ていた。※その日は、格別に暑く、風がきわめて強かった。特に涼しい高地からやって来た身体にはこたえたはずで、さらに強風の向かい風である。
あれほどの選手でもラストでスタミナ切れは、当然と言えば当然であった。あの悪コンディションは現場にいた者のしかわからない。絶対に高橋選手は、気象条件のことを言いたかったはずだ。※最終的に一位になった選手と2人だけ次元のちがうスピードだった。
でも、言わなかった。悔しさを抱えこんだのだ。高橋選手がそれを晴らすのは、アテネの後の北京オリンピックだ。それを思うとやはり浪人生はまだ恵まれていると思えてきてしまう。4年後ではなく、来年のチャンスを是非つかんでほしいし、コーチ役として是非つかませねば、と心から思う。
 
 
2004年7月編
 夏休みの前に
7月19日から8月31日までを夏休みとすると、ちょうど8月9日までが前半、8月10日から8月31日までが後半ということになる。ところが、心理的な要素を加味してみると8月5日までを前半、8月6日からの10日間を後半とするのが適切であるように思われる。なぜなら、8月16日からの2週間余りは時の流れがきわめて速いからだ。 換言すれば、「夏休みは8月15日まで!」と思っておいたほうがよい。
宿題については、テキストタイプのものを先にやりがちだが、調べ物タイプを先にやり終えるようにし、テキストタイプのものは、毎日何ページずつ、という形で臨むほうがよい。休み明けにテストをするような学校ではなおさらだ。夏休みの宿題については、どうしても多くなりがちとなる。各教科の先生が、互いの話し合いもなく出してくるわけで、それを各人がすべて引き受けることになるからだ。このような量に対処するには、一日を午前、午後、夜と3回使えるようにしておくことが望ましい。極端なことを言えば、あまりにも遅く起きてしまうと、すぐに暗くなり、夜しか使えないことになるからだ。また、計画を立てる時も余裕を持たせるようにすべきだ ろう。ボーッとする時間を持ったり、自分の将来について思いを馳せるのも夏休みならではだ。一科目についてのアドバイスなら3点だけ挙げておく。
第1にまず、苦手だがどうにかしなくてはならない科目は初歩から順にやってみる。(理・社なら小学生のところからやってみるのもよい。)第2に得意科目もしくは得意にしようと思う科目は、とことんやってみる。第3にテーマをひとつ決めてやりぬく(たとえば、単語集1冊)宿題と、この3つで夏休みは終了だ。 とてもうまくいった時には冒頭で書いたように8月15日ですべて、終了するかもし れない。 「それから先は?」だって? 君の時間だ!!
 
 
2004年6月編
 自己暗示について
英単語を覚える時に、単語帳を毎日2ページぐらいずつ進める生徒がいる。初対面の単語ばかりならそれも悪くないだろう。しかし、見覚えがある単語が入っている部分なら、10ページぐらいずつはやるべきである。忘れることをおそれてはいけない。10ページずつやれるようになるとギアが入り、加速度が期待できるようになる。ここから先は、思い込みも手伝うのだが、20ページ、30ページとやれるようになる。そんなふうになるとたとえば、他の教科でも、どうしてあんな薄い教科書を1年もかけて学ぶのか、という気持ちになってきてグンと1週間くらいで1年分くらいやれそうな気持ちになってくるのである。人を教える機関は、学校も塾も含めて、こんな妙な気持ちにさせない方向性を持っているもので、着実かつ人並みな進み方を前提にしてしまう習性がある。
ともかく、1年分を1週間でやれるかどうかではなく、やれそうな気持ちが貴重であり、そんな気持ちになった時は、ためらわず、やってみてほしい。今ここに書いている「気持ち」は、複眼的思考にも通じるもので、中でまきこまれている自分以外の外から見る自分に近いメンタル分野といえそうだ。「自分はできる。」という気持ちでいた方があることがらに取り組む時には、うまくいく場合が多いこともたしかであろう。ある数学の問題について、「これは東大の過去問だ。」というだけで何も言わなかったり、別の大学の名前を言ったときよりも正解は落ちてしまう。「できないかもしれない。」と思って解く人が増えるからだろう。そうすると「東大などだれでも行ける。」と思っている方が、東大に合格しやすそうだ。どこかで「現実はそんなに・・・・。」という声が聞こえてきた気もするが、無視!!
 
 
2004年5月編
 外国人教師のつかいどころ
外国人による英会話の時間をどの学校も設けているが、うまく機能していない例が多い。教室の空気がシラケムードであったり、沈滞ムードであったりさまざまだ。「シラケ」は、帰国子女と教師だけの、双方向が機能しているだけで、置いてけぼりをくっているその他の生徒達が醸しだす雰囲気である。また、沈滞ムードは、教師と生徒とのコミュニケーションが成立せず、教師の独り言のようになっている場合である。生徒の側から言わせると、「何か、めんどくさい。」ということらしい。確かに、外国語を(で)しゃべることはメンドウだ。ましてや、クラスの中に「メンドウ」だなァという空気がまんえんしていたらその中で英語を積極的に話すのは勇気が要ることになる。
どうしたら、この「シラケ」と「メンドウ」を克服できるだろう。ひとつにはもちろん外国人教師の力量がポイントだ。英語が不得意な生徒にも参加しやすいムードを作り上げ、活気ある授業を行う。大変だが、ぜひその点を努力してもらいたい。「この子達はヤル気がなくて、しゃべっていることもわからないから適当に・・・」などと思われたら最悪だ。現に次のようなジョーク?を言うアメリカ人もいる。日本の若者にDo you speak English? ときくとYes, I do. と答えるから。ではWhere is 〜? と聞くとやはりYes, I do. と答えるのだと・・・。
要するに甘く見られているわけで、学校でも日本の中・高校生はもっともっと外国人教師が認識を改めるように自らも努力しなければなるまい。その日の授業のために、各自、ひとつは質問を用意して授業に臨む。そして、教師の答えを想定する。こう返してきたら今度は自分はこう言おう、というようにそこまではやってほしい。教師の側も会話のキャッチボールを望んでいるはずなのだから。 確かに、我々日本人は日本人の集団の中で英語を話すのがどこか照れくさい気持ちがある。それは認める。また、英・米・オーストラリア人は体格もいいので気持ちの上でも押されやすいのだろうが、そこを押しかえしていく気迫を現中・高校生に望んでいきたい。「シラケず」「メンドウがらず」こちらから、ドンドン戸をたたこう!
 
 
2004年4月編
 「内定」と「合格」
3月も中旬過ぎになると、時々以前の生徒から連絡を いただくことがある。大学3年生からである。 「先生〜から内定をいただきました。」 「あ、そうヨカッタネ。」というやりとりは、できない。 「あ、そう」どころではない。本当に大変なのだ。 まず、エントリーシートという会社側からの一方的な応募書類を 仕上げるのに、相当の時間と努力が必要となる。 「まだ、内定がでません。」と連絡してきた。A君によれば、精魂こめて書いた会社からは、面接のお呼びがかからず、ホームページを見てサッと仕上げた会社から、「来社して下さい。」 という思いがけず、とりあえずいい返事がもらえたりするようである。 このあたりは、大学での課題レポートと似たような面もある。
ただ、私の仕事となっている合格させるための受験勉強とは、やはり異なる。受験勉強は過去問を研究するにしても、その背後の出題者にまでは、なかなか思いが至らない。どこまでも「ペーパーが相手」だ! しかし、採用面接となると直接出題者と顔を合わせるようなものだ。時には、その出題者が、もっと自社の製品を売るにはどうしたらよいか? と問いかけることもあるようだ。 最終的には「人が相手」で、こちらの世界ではそれは、AO入試(アドミッション・ オフィス入試)とオーバーラップしてくるのである。AO入試では、大学が会社として機能しているわけだ。今回「内定をいただきました。」と連絡あった中で最も印象深い学生は、お嬢様系女子大学を中退して受験勉強をし直し、自分が心から 打ちこめる学科を持つ大学に入り直した子である。初めて会った時から、その秘めた”思いつめ”がどことなく感じられる受験生であった。 ともかく「まだ」の元受験生に内定目指してガンバレのエールを送りたい。
 
 
2004年3月編
 1粒で3つの味が楽しめる?
上智大文学部心理学科の英語の問題文をここに紹介する。
  次の(41)〜(50)の英語の内容に合致する単語を最初に見つけ、その単語と強勢(アクセント)部分の母音の発音が同じ単語を(a)〜(e)から1つ選んで記入しなさい。
一度読んだだけではすぐに題意が伝わりにくいのも当たり前で、ここには1つの設問で3つ分のワナが用意されている。まず第一に、与えられた英語の内容を的確につかむ(英々辞典ふうの説明)。 第二に、その説明に合致する単語を選び出さねばならない。第三に、その単語をきちんと発音してアクセントのある母音部分の発音が同じ単語を見つける。こうして初めて正解に至るというわけである。例として(42)をそのまま紹介する。
 (42) feeling uncom fortable in a social situauion, aspecially when you have said or done something that makes you seem stupid.
     (a)involvement   (b)anxious
     (c)unstable   (d)hesitate
     (e)enbarrassment
 (42)集まりの中に居づらくなること、ことにあなたが、愚かにみえてしまうようなことを言ったりした時など。
     (a)関与   (b)心配して、切望して
     (c)不安定な   (d)ためらう
     (e)困惑
よって(e)を選んでおしまいではなく(e)を選んで発音すると[]となるので(b)anxious[]が正解となる。このように流れていくわけで、英文を理解して該当単語を見つけ出すことができても最後の発音のところでミスしたらとても悔しい問題となることは確かである。ここでは、単純に正解を得られない例を挙げたかったのであるが、余談として、逆のアプローチから正解に至ることにも触れておこう。つまり、アクセント部分の発音から入るのである。同じなのは(a)と(e)。英文に合っているのは(e)、よって答えは(b)というようなアプローチが可能である。その他、上智大に限らず、ある日本語の1単語について状況に応じての使い分けが求められるようになりつつある。例えば、「認める」という意味の英単語としては、admit, permit, recognize, approve などがあるが、それぞれ使われる状況は異なるし perceiveの方が適切であったり、時には、seeの方が文意に合っている場合もあるだろう。その意味で、ハンディーという点では譲っても、その単語の用いられている英文をしっかり載せている単語集を選びたいものだ。
 
 
2004年2月編
 S君の報告
慶応大学への入学が正式に決まった今日(2/10)S君(慶応高校)が報告に来てくれました。電話では、話をしたことがあったものの、直接顔を見るのは、1月21日以来(1/22が学年末試験最終日)のことだった。2/4の進級会議を経ての2/10の推薦発表という段取りで学校に彼の名前が掲示されている様子を彼の携帯で見ることができた。
彼は、普通部も受かって中等部に入学した生徒で、頭はいい、しかし、高校時代の成績は、総じて良くはなかった。要するに勉強をしないのである。(さすがに試験前にはやっていたが)それでも記述タイプの「現代社会」はすばらしい高得点だったり、英文を「らしい日本語」にするのは上手であった。自分の塾に来ていた生徒をほめたり、けなしたりして失礼な私であるが、彼は「単なるナマケモノ」ではない。1周、他の生徒より多くまわって周回遅れの生徒達と歩調を合わせているような面もある。目いっぱい勉強するのを照れているようなところもある。
しかし今日は、素直にうれしそうだった。いい顔をしていた。彼が縛られているものは、おそらく中学の受験勉強だ。18歳になっても12歳の時の自分の方がすごかったことに彼はどこかで気づいている。彼には、大学で12歳の自分に真正面から向かいあい、自らそれを乗り越えてほしいと心から思う。
「その方法は?」、「本人の実践!」それのみだ
 
 
2004年1月編
 古文と「古文」について
古文は文字通り古文で「古文」は科目のことである。なぜ、新年早々「古文」について触れようと思ったのかというと、この時期百人一首の暗記の宿題が多いからである。例えば、61〜80までの20首を覚えてくるようにという具合である。一言でいえば、つまらない宿題である。いや、「教養」ということに限定するなら意味のある宿題といえるだろう。これはやはり、61〜80までで「いいナ」と思ったものは覚えなさいというようにすればもうちょっと楽しくなるのではないだろうか。意味がとれても感情移入できない歌やイメージのわからない歌を覚えたところで、「知っている」ということだけ、カッコつきの教養にしかならない。 このように「古文」はとりあげ方がつまらない方向に流れる場合が多い。
古文に慣れていないときに、文法を先走ってやるので特に助動詞などは「メンドー」とうことになってしまう。 私の提案は、古文と訳としての現代文を併記する、つまり、対訳ふうの教科書にするということである。そうすれば、はじめに文法ありき、ということはなくなるし、安心して古文が「読める」わけである。ここでの「読める」とは、古文の流れに身をまかせてみる、と言うことだ。音読したり、黙読してみて、意味のとりにくそうなところは現代語訳を参照してみる。「ラクだ」「ラク」でいいのだ。八百年前の人に同感している僕・私がいる。なんだか「楽しい」そうあってほしい。原文で味わうためには、たしかに文法の知識は必要だ。しかし、現状は文法の為の文法になっている場合が多い。対訳ふうにすればおのずと読む量が増える。読む量が増えると解釈にある種の「カン」が働くようになる。「秋キぬ」か「秋コぬ」かここは「秋キぬ」だろう、となる。何度も「ののしる」が出てくる。いつも現代語訳では「大声で騒ぐ」になっている。いまの意味と違うんだナと納得する。「うつくし」(かわいい)「やうやう」(だんだん)も古文の中での意味を自然と覚えるようになる。 文法第一主義では「古文」はオモシロクないゾ!と言いたい。
 
 
2003年12月編
 英単語の手がかりについて
英語の長文問題ですべての単語が確実にわかる、ということはまずないと考えてよい。そこで、わからない単語については類推するわけだが、もちろん前後の意味がよくわかって いる場合にその類推が当たる確率も高まることになる。これがコンテクストによる類推だ。
しかし、単語には別の面からの類推法がある。いわゆる「語根」からの類推法である。まず接頭辞としての'ex'を知ってほしい。これは「外へ」を意味を持つ。 だから、もし'include'が「含む」という意味だとわかっている人が初めて'exclude'という 単語に出会ったとしても'ex'がわかっていれば「除外する」という意味かな、と鼻をきかせることができる。すると'import'(輸入(する))に対する'export'も納得できるし、'impression'(印象)に対する'expression'(表現)も納得できる。さらに言えば'press'は「押す」ことだから「内へ押すこと」がもともとの原義だということもわかってしまう。もちろん「不」や「非」や「無」や「否」を表すin, im, il, ir, ig, un, mis, dis, などはおなじみの接頭辞である。(例: inactive, impossible, illegal, irregular, ignoble, unkind, misfortune, dishonest)
'ex'の次には'com'('con')を知っておくと必ず役にたつ。これはまず@「ともに」の意味になり、A「完結」の意味にもなる接頭語である。だから例えば'contemporary'という単語はテンポ(時)を同じくするということで「同時代の」という意味になり、我々と同時代という意味では、「現代の」とい意味にもなる。 Aの意味では'consequence'が'sequence'(連続)の完結ということで、「結果」という意味になる。
このように、'un〜'や'〜ful ''〜less'など以外にも'ex'や'con'のように知っていると単語の意味の手がかりになるものは結構ある。以下に他の例を挙げてみるので長文問題の一助となればと思う。
 'bi' (2) → bilingual, bicycle
 'contra' (反対) → contradict (反論する)
 'mono' (単)  → monotone (単調), monochrome
 'pro' (前へ)  → proceed (前進する), project
 'sub' (下に)(福)  → substitute (代用する)
             → suburb (郊外)(urb(都会)の補欠ということ)
 '-ee' (〜される人)  → employee (雇われている人)
 'cult' (耕す)  → cultivate, agriculture (農業)
 'fin' (終了)(限界)  → fluently, define (定義する)
 'fl' (流れる)  → fluently, flow
 'gen' (生じる)  → generate
 'homy' (法則)  → economy, astronomy
 'terr' (土地)  → territory
〜〜〜では、また1月号で!〜〜〜
 
 
2003年11月編
 センター試験あれこれ
センター試験を甘く見てはいけない!
英語…80分にしては、それなりのボリュームがあることを知ってほしい。特にヴィジュアル系の問題は、その年度によって妙にクセがあって正解を得にくい場合もある。
数学…マーク慣れは必要だ。分数については、分子の方を先にぬりつぶす事になっているし、60分という時間も微妙だ。それに、なんといっても問いから答えに到る過程が誘導形式になっているために自分なりの正解の導き方と異なっている場合は、結構やりにくいもの。
国語…国語Iと国語I・IIにわかれている。両方とも80分で現代文・古文・漢文から成っている。国語I・II指定が多いが、大学(学部)によっては、どちらかを選択することになっていたりする。そんな時は、国語Iを選ぶべきだ!国語IIより問題文の量が少なく、設問も平易だからだ。

ひと口にセンター試験といっても扱いはさまざま!
国公立の場合…自分の大学での入試は行わずセンター試験だけで合否を決定する大学(学部)からセンター試験をその大学独自のテストを受けるための資格試験として扱うにすぎないところもある。そんなところは、ある点数以上をとってクリアした後はセンター試験の結果をゼロにして自分のところの問題だけで合否の判定をしている。(比率はさまざまだが大半はセンター試験と独自入試の合計で決定!たとえば、センター試験の英語の配点は200点だが、満点でも100点として、もしくは50点なり30点として圧縮して独自入試の点数と組み合わせていくことになる)
私立の場合…例外はあるがセンター試験での合格者と独自入試での合格者とがいる形になる。
ここで注意したいのは センター合格者の募集人数がごく少なくても出願してみるということである。募集人数が10名でも215名を合格させている例もあるからだ。もちろんこの215名の中には難関国公立を第一志望としている受験生が相当数含まれている。 いずれにしてもセンター試験本番での最後の5分はきわめて緊張度の高いものとなる。その本番まであと11週間(1月17・18日)!その意味でも時間とのたたかいだ!!
 
 
2003年10月編
 英単語の習得法について
@中1で初めて英語に触れるとき(第一段階)、この段階ではローマ字をある程度やったかやらなかったかで、大きな相違がある。「ある程度」とは、ローマ字の駅名が読める程度のことである。この程度でも母音と子音の区別がついているから、英単語の発音が、まさに「ある程度」予想がつく。(pen, dog, deskなど)。しかし問題なのは、全くローマ字の手ほどきを受けたことのない生徒である。彼にとっては、''pen''を発音しようにも、手がかりがなく、さらにはp, nがその仲間で、eはちょっと違うという感覚もないので、いきなり覚えろと言われても困ってしまう。そういう意味では、ローマ字の果たす割合は大きい。
A中学生の第二段階以降、使う教材によって出会う新出単語の数が異なる。大きく分けて、教科書派とプログレス派ということになる。教科書は少なめ、プログレスは多めである。私は単語を習得する形態は、イメージとして、オリンピックの「表彰台型」がいいと思っている。つまりベースになる日常よく用いられる単語を一番下の段にしつつ、段階的に積み上げていく形態である。そういう意味では、両教材とも易しい単語からむずかしめの単語へと移行しているので、合格である。ただしプログレスの場合には、「長方形型」になりやすい。つまりベースになる単語をしっかりマスターしないうちに覚えるべき単語が次々と押し寄せてくるために、少しむずかしめの単語がまずまずわかる反面、ベースとなる単語もまずまずという程度ということになりやすい。段階的にマスターできないために、全ての単語が、同じような感じで受けとられるのが、私の言う「長方形型」である。では、教科書の方が良いのかというと必ずしもそうとは言えない。最近の教科書はカラフルで中味もよく工夫されてはいる。しかし、知識欲のある生徒には、ちょっと量が少なすぎるように思える。また高校一年の標準的な教科書との落差も大きすぎる。大学受験を視野に入れた時、そのことはより明らかになる。
まとめてみれば、現在教科書をメインにしている場合には、副教材でどれだけ肉付けできるかがポイントとなり、プログレスを使っている場合には、積み残しをしない、ためないことかが英語で苦労しない絶対条件となるということなのである。この件についてはまた改めて語る時があると思う。 
 
 
2003年9月編

 円周率は、3.14か3か?

まず円周率を3.14か3にするか?ということの前に直径の3倍ちょっとが円のまわりになるというイメージを持つことが大切だと思う。同様に半径×半径の3倍ちょっとが円の面積になるということについては、半径×半径(ミニ正方形の面積)の4倍がその円の外接円を外接正方形となることをふまえて、その外接正方形の4分の3ちょっとが円の面積と言うイメージを持つことが大切でしょう。また、直径×4が、外接正方形のまわりの長さとなることにも触れておきたい。
さて、3.14か3かということについては、円周率そのもの以外のことがかかわっています。それは、従来の円がらみの入試問題は、同時に計算能力も見るというタイプがとても多いということです。 たとえば、半径が6cmの円と半径が4cmの円の面積の差を求めるときに、
6×6×3.14-4×4×3.14=(36−16)×3.14としてすばやく解答を求められるかということをも出題の意図としています。ですから、3.14を採るか、3を採るかということについては、論点のズレが見受けられることがよくあります。
3.14派は、厳密に言えば計算効率化能力を見たい側で、3派は、円そのものの、円周、面積を第一に考えていると言えるでしょう。中学以降では、π(パイ)を用いて計算することになるので、私は、小学校の間は、3よりちょっと大きいくらいの概念で、いろいろな円周率に触れておくのがよいと思っています。すなわち固定化せず、ある場合には、「円周率を3.14とします」あるいは「22/7とします」とか「3とします」という仮定に柔軟に対処できればそれが一番いいと考えます。なぜなら本当は円周率は、3.14でも3でも、22/7でもないからです。
 
 
2003年8月編

 数学ギライの高校生が多いのはどうしてでしょう

いくつかの場合が考えられます。まず第一に数学の先生は、おそらく学生時代もともと数学が好きであったであろうから、生徒の興味を引き出す工夫に欠ける場合(先生の数学力と教授力がリンクしてない例)。第二に、特に高校の数学になると、数学は抽象性が増し、教材と実生活との関わりが見えなくなるので、『こんなことをやっていて何になるのか?』という疑問が強くなる結果、ちょっとむずかしくなるとすぐにコーサンして、キライになる場合。やはり、今この学習している分野は、こういう方面に進みたい人には、絶対必要だ、という先生からの必要性への言及が不可欠。第三に、これが一番多くて、最大の難問ですが、小・中からの負の積み重ねでちょっとした問題にも解く方法を持たないために、いわば数学の教科書が外国語になってしまっている場合です。この場合ははっきり言って、その子は数学には不向きなのです。他の教科に活路を見出そう!悲観する事はない、数学に不向きな自分を知ったことで、将来の道が見やすくなったのだから。Be hopeful !

 

 

  

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